二〇二三年新年御挨拶
「BOOTH」にてオーディオブック『前出師の表』(諸葛孔明)販売開始
先日「BOOTH」にショップを開き、オーディオブック『前出師の表』(諸葛孔明)の販売を開始しました。ポッドキャストのサブスクリプションも考へてゐますが、リスナーの数や更新頻度からいつてそちらは時期尚早なので、一先づはこちらでのオーディオブック販売を始めてみることにしました。
今囘はオーディオブックといつても短いもので、『國譯漢文大成 第三卷(「文選」中卷)』所収の「出師の表」を朗読したものになつてゐます。ファイル形式はMP3(音声ファイルフォーマット)です。できればブックマークを利用できるM4B(オーディオブックファイル)で販売したいのですが、残念ながら現時点では対応してゐないやうです。よつて御購入後はiTunes等でプレイリストを作成していたゞき、そちらにMP3ファイルを追加して聴いてみてください。
これから徐々によい本を増やしてゆきたいと意つてゐます。完成次第お知らせ致しますので、また聴いてみてやつてください。
それではまた!
二〇二二年新年御挨拶
新年明けましておめでたうございます。本年もまた一年どうぞよろしくお願ひ致します。
昨年はTATEditorで『孫子抄』を書いて出版したこと、また一昨年に引き続きポッドキャストの配信をすゝめたこと、この二つを主として、表現の土台作りに勤しんだ一年となりました。今年はポッドキャストをできるだけ毎月更新するやうにしつゝ、徐々に動画もつくつてゆきたいな、とおもつてゐます。
文章、写真、ポッドキャスト、動画、とそれ〴〵の表現媒体に各々の特色・利点がありますので、これからもそれらの特色・利点を活かしつゝ、より多くの人々に己の念ひを伝へてゆきたいな、と考へてゐるところです。
相変はらず尺進寸退の日々ではありますが、今年一年もまた徐々に発展できるやう日々努めてゆくつもりです。
内憂外患のなかで迎へた新年、皆様の今年一年の御多幸を心より念願してをります。皆でより良い日本、延いては世界をつくつてゆきたいですね。
それではまた!
二〇二一年初詣
今日は氏神様と阿智神社に初詣へ行つて参りました。
久しぶりに美観地区を歩いてみて、寒くはありましたがとても気持ちよかつたです。昨年一年間の御守護御礼を申し上げ、そしてまたこれから一年よろしくお願ひ致します、とお祈りしてきました。それ〴〵の神社にて清々しい神氣を受けながら、初詣を了へたことで、新年を実感することができました。
今年また一年、益々発展してゆけるやう精進してゆきたいと意ひます。
二〇二一年新年御挨拶
くもりなく 千年にすめる 水の面に やどれる月の 影ものどけし
紫式部
新年明けましておめでたうございます。今年も一年どうぞよろしくお願ひいたします。
昨年試みに始めてみたポッドキャストが十一囘を数へるやうになりました。拙い話ですが少しづゝ聴いてくださる方が増えてゐるやうなので、これからも継続していかうとおもひ、またとてもうれしく感じてゐるところです。時間の制約もあり、なか〳〵おもふやうに更新できてはをりませんが、今年もできるだけ頻繁に更新して種々なお話をしてゆきたいな、とおもつてゐます。
廣江の櫻
二〇二〇年新年御挨拶
手書きブログ
それではまた。
鎌倉
十日にのこつてゐた最後の靑春十八切符をつかつて鎌倉に行つてきました、二度目の訪問です。
今囘は小林秀雄さん所緣の地を訪ねることが主な目的でした。
先づ鶴岡八幡宮に參詣してから、雪ノ下の所緣の地を廻りました。プライバシーに關する爲詳細は省きますが、直に訪ねてみて、あゝ此處で思索、執筆をされてゐたんだなあ、と想ふと胸に來るものがありました。無論景色が當時とは變つてゐることはわかつてゐますが、それでもその地に接することが僕にとつては貴重な體驗でした。
その後大佛樣もまだ拜してゐなかつたので、バスに乘つて高德院へ。靑天の下、とても身近に尊像を拜することができ、爽やかな氣分になれました。奈良と同じやうに鎌倉の空もひろく、步いてゐて心地よいです。但し、昨日は猛烈な暑熱を感じながらの鎌倉廻りでしたが(笑)
次に訪れたのは鎌倉文學館で、小林さんやその外の鎌倉文士の直筆原稿、寫眞などを見ることができ、とてもよかつたです。
建物は舊前田侯爵家の別邸といふことで、庭園とゝもにおちついた佇まひで、鎌倉廻りの途中で、ちよつと一息つくのに最適ですね。
文學館を出てから、小林さんのお墓參りをしたいと念つてゐたので、北鎌倉驛から步いてすぐの場處に在る東慶寺へ往きました。殘念ながら、前日の臺風に因つて墓域が整理中となつてをり、墓前に至ることはできませんでした。仕方がないので入り口にてお祈りをさせていたゞき、辞去することに致しました。僕の外にも、どなたにむかつてゞせうか、女の人がひとり心をこめて祈つてをられましたね。
最後に驛をはさんで反對側にある名刹円覺寺へ參詣して歸途につきました。清澄な氣を受けて、心がしづまりました。また紅葉の時期に訪れてみたいとおもひましたね。
東京(一)
年初におもつてゐたのは「動かざるもまた動なり」、といふことだつたのですが、諸事情により暫らくの閒東京で生活をしてみることになりました。
奈良か岡山に住みたいなあ、とずつと考へてゐたところ、いつの閒にか東京に來ることになるとは、ほんたうにわからないものです(笑)
盥の水は引くと向かふにいつてしまふが、押すと此方にくる。いくらか執着がとれたからでせうか。二十代には一時期、東京か橫濱に住んでみたいといふ希望がありました。その時にはかなひませんでしたが…その欲が消滅した現在になつて、めぐりめぐつて、當時抱いてゐた希望が叶ふことになつたのですね。寧ろそれは、適ふ、と謂つた方がよいのかもしれません。二十代の僕には未だ時期が來てゐなかつたのでせう。
いまが適期だといふことなのでせうね。
偖、では實際に東京に來てみてどういふ心境なのかといふと、まつたくと云つてよい程高揚感がありませんね(笑)勿論たのしみにしてゐること、やつてみたいことは種々とありますよ。その意味ではちよつとだけ、期待感はあるんです。でも本當にほんのちよつとだけでね(笑)まあ、きつとその位でちやうどいゝのだらうとおもつてゐます。肩の力がぬけてね。
これから淡々と東京をたのしみたいと意つてゐます。
それではまた。
理想
「理」とは玉を「をさめる」ことである。
玉に文(あや)理(すじ)があり、磨いてそれをあらはすことである。人の肌におよぼしては、肌理といふ。
「想」の元字「相」は木と目に從ひ、視ることを字の本義とする。
「みる」とは、その本質にせまる行爲を意味し、また「相」が相互の意となるのは、視ることによつて兩者の交靈が可能となるからであらう、と『字統』(白川静)には說かれてゐる。
この「相」から「想」が生まれ、それは形容を想ひうかべることをあらはす字となつた。
「Vision」を想ひうかべるのである。
然うであるならば、「理想」とは、己の「Vision」を未來にむかつてたゆむことなく投映しつゞけ、同時にそれを「切磋琢磨」してゆくことではないか。
別言すれば、其の「在るべき姿」を整成してゆく實踐とも謂へるであろうか。
卽ち「理想」を有つといふことは、克己と同義であり、それを有たない、といふことは活(生)きてゐないのと何ら擇ぶところはない、さう思ふのである。
人(靈止)たるもの、常に凡ゆる存在の本質を視すゑながら生きてゆかなければならぬであらう。
「理想」を有たない者とは、與に學ぶことすらできぬ。況んや、與に權るをや。
*畫像の字は白川フォント(link)である。
二〇一八年大晦日
今年も光陰矢の如く過ぎてしまひました。
この一年もまた多くの方々にお世話になりました。ほんたうにありがたうございました。
今年一年は働きづめの感がつよく、特に何も成し遂げることができなかつたとおもつてゐます。唯一友人とアメリカに行けたことが収穫でしたね。貴重な體驗をすることができ、とても感謝してゐます。本も書きたかつたのですが、結局時閒がなくてほとんど手付かずといつた狀態でした(笑)
來年は、小さく動く、といふことを指針にしたいと思つてゐます。
“戸を出でずして天下を知り、牖を窺はずして天道を知る。其出づること彌よ遠ければ、其知ること彌よ少なし。是を以て聖人は行かずして而して知り、見ずして而して名づけ、爲さずして而して成る。”(『老子』第四十七章 田岡嶺雲譯)
“故に兵に四路五動有り。進は路なり。退は路なり。左は路なり。右は路なり。進むは動なり。退くは動なり。左するは動なり。右するは動なり。默然として而して處るも亦動なり。善者は四路必ず徹し、五動必ず工にす。”(『孫臏兵法』)
戸を出でずして天下を知る、といふこと。そして、默然として而して處るも亦動なり、といふこと。このふたつがいま心中にある言葉です。
それではまた來年もよろしくお願ひ致します。
よいお年を!!
アメリカ旅行
六月末に友だちとアメリカへ行つてきました!
アメリカ初上陸です!(笑)
幼馴染のK君がラスベガスで每年開催されてゐるといふ「SuperZoo Grooming Contest」(世界的な犬のトリミングコンテスト)に參加するに當り、そのアシスタントとしてこの度同行することになりました。まあちよつとした通譯をしただけで大した仕事は何もしてません(笑)
旅費等々は彼が全て出してくれたので、經濟的負擔なく、ほんたうによい經験をさせてもらひました。とても感謝してゐるところです。
トリミングコンテストに關しては、僕はまつたくの素人で右も左もわからないといつた感じで、只々アシスタントに徹してゐました(笑)全體的に日本人の參加者が多く、コンテストを通じて皆で協力していかう、といふ雰圍氣でした。そんな中、異業界の方々と種々とお話することができてよかつたです。
K君は今囘惜しくも入賞することはできませんでしたが、たくさん良い刺激を受けたやうで、これからもまた挑戰していくさうです。ぜひいつの日か優勝してもらひたいと願つてゐます!
帰國前日、現地28日にラスベガスからレンタカーでグランドキャニオンまで行つてきました。
この道中で少しだけほんたうのアメリカにふれることができたやうな氣がします。ラスベガスはやはり特殊なところなので、アメリカの日常を味はふことはできませんね。途中で寄つた「IN-N-OUT Burger」やガソリンスタンド、ちよつとした食料品店などの方が日常を感じることができて面白かつたです。
グランドキャニオンには17時頃に着きました。これからちやうどマジックアワーを迎へるといふタイミングでよかつたです。主に「Lipan Point」と「Desert View」から景色を視ました。これらのポイントは日の出の時閒帯の方がより美しいのではないかと想はれましたが、夕方でも十二分に堪能することができました。壯觀でしたね!
またいつか近くに行くことがあればぜひ再訪したいと意ひます。
グランドキャニオンを出たのが20時半頃でした。朝十時頃に出發してホテルに歸つてきたのが翌三時過ぎ、豫定よりもかなり時閒がかゝりました。飛行機に間に合ふやうに五時頃にはチェツクアウトしなければならなかつたのでかなり焦りましたね、いや、ほんとに(笑)まあ何とか間に合つて事なきを得たのでよかつたです。
僕が國際免許を取つてゐなかつたので運轉はすべてK君がしてくれました。疲勞のあるなか睡魔との闘ひでかなり大變だつたと思ひます。やばい瞬閒も何度かありましたが、いまとなつてはそれも良い想ひ出となりました(笑)Thank you so much!!
「At Lipan Point」
「At Desert View」
iPhone snapshots with Hipstamatic and Instagram
この旅の米國への旅は事前に望んでゐたものではなく、全く僕の意志を超えたものであり、ある意味でプレゼントのやうなものでした。そこにこれからの僕の人生にとつて深い意味があるやうな氣がしてゐます。
その地を踐む、また視るといふことが大切なのです。
次はぜひ東海岸に行つてみたいと意ひます。ニューヨークやワシントン、ペンシルベニアといつた諸都市に興味がありますね。
それでは今日はこのあたりで、また次囘!
See you!!
三ケ日滯在記
“夕暮れどきの浜名湖ほど美しいものはない。
湖西連峰のむこうに落ちてゆく太陽の赤みを帯びた光が、青い湖面にきらめき散って、夜の色に渾融するまえの色彩のたゆたいは、観る者を陶然とさせてくれる。
この湖がもつさざ波のひとひらひとひらに夕陽の赤が映り、それが崩れてまた興るというくりかえしを遠望することで、からだのしんがしびれるような感動をおぼえる。三河湾を観て育った私は浜名湖の美しさに気づくのがおそすぎたといえるであろう。私の故郷である蒲郡から夕景の海を観ると、黄金色に輝く海面に圧倒されるにちがいない。だが、日没と同時に海は黒く沈む。しかしながら西浦半島の上空に残る赤は、かえって立ち昇り、空の青を侵してゆく。その赤の端が青と微妙に融けあう美しさは、晴れた冬の日にとくにあざやかである。”
(『他者が他者であること』「近水向陽」宮城谷昌光)
“名古屋から浜名湖北岸に居を移したのが、今年(一九九六年)の二月四日である。
二月二日、三日と大雪で、東名高速道路が通行止めになり、そんな厳冬のなかで荷づくりをし、引っ越し直前ということがあって暖房器がかたづけられたので、寒さのため、はじめて足がひび割れした。その痛みはしばらくつづいた。
二月四日はさいわいにも雪はやんだが、新居で夜を迎えて、不安がつのった。すさまじい風であった。湖北はまったく知らない地ではなく、風が強いことは承知していたものの、
──これほど強烈とは。
と、青ざめるおもいがした。家が吹き飛びそうだと表現しても、うしろめたさがない。こういう風のなかで、これから暮らしてゆかねばならないのか。それともこの強風は今夜だけなのか。そんなことを考え、なかなか寝つかれなかった。
翌日もその翌日も、風は強かった。
西風である。
西北に猪鼻湖があり、東南に浜名湖がある。どちらの湖にも歩いて数分のところにわが家がある。風は猪鼻湖のうえを走ってくるのである。”
(『他者が他者であること』「マキの生垣」)
“浜名湖北岸を西東に走る街道を姫街道という。そのことはまえに述べた。もちろん秀吉が生きていた戦国時代に姫街道とよばれていたはずはない。いまこの街道は片側一車線の自動車道路になっている。愛知県からこの道路を自動車で走ろうとすれば、豊川市から発することになり、豊橋市にはいり、県境の本坂トンネルを通って、静岡県の三ケ日町にくだってゆき、寸座峠を越えれば細江町にはいる。
湖のへりを走る道路であるから、車窓からみる風景は、日本でも有数な佳景である。風景そのものもさることながら、景勝地といわれているところを車で走ったことのある人にはわかってもらえようが、十数分走れば、目がさめるような景観も、平凡な、あるいは俗悪な風景にかわってしまう。が、この道はちがう。ゆけどもゆけども、風景の質が堕ちない。 浜名湖には二十八の川がながれこんでいる。当然、湖北には橋が多い。細江町には、井伊谷川と都田川が合流するところに落合橋という比較的大きな橋がある。その橋をわたらず、井伊谷川にそって北上し、井伊谷川の支流の神宮寺川寄りに、龍潭寺と井伊谷宮をみつけることができる。そこはすでに引佐町である。
(『他者が他者であること』「井伊家の戦史」)
“龍潭寺はじつは彦根にもある。彦根に行ったとき、はいることができなかった。が、引佐町の龍潭寺は観光客をこばんでいない。庭は小堀遠州の作であり、左甚五郎作とつたえられる木彫の竜をもち、さきの文にあるように床は鶯張りなので、踏むと優雅に鳴く。四季を通じて、おとずれる人が絶えない。わたしは龍潭寺にはよくゆくが、となりの井伊谷宮にはいちども行ったことがなかったので、年末にはじめて拝観した。祭神は宗良親王である。表からみると小さな神社にみえるが、奥深さはなかなかのもので、これが遠州の奥深さかとあらためて感心した。わたしの好きな俳人である水原秋桜子の句碑があった。
「水無月の落葉とどめず神います」
静かであった。が、歴史を好む者は、この静けさのむこうに、かならず何かを聴くはずである。”
(『他者が他者であること』「井伊家の戦史」)
昨秋ひと月ほど静岡県の三ケ日町に滯在してきました。
宮城谷先生が居を定められ、あの數々の名作が紡ぎだされた三ケ日といふ町、その地を直に感じてみたいとおもひました。
僕は人生で一番苦しかつた時期に先生の作品にめぐりあひました。
そして全集をむさぼるやうに讀みました。現代にこれほどの作家がゐたのか、と驚嘆せずにはをれませんでした。
讀むたびに感動し、胸が鳴るのを、いつも實感してゐました。淚なしには、とても讀みつゞけることができませんでした。
また先生の作品を通して白川先生を知ることができました。
なんとすばらしい出逢ひであつたことか。それがなかつたら現在の僕は決して存在してゐないだらうと念つてゐます。
この度の滯在中、或る日車の運轉をしてゐるときに、先生ではないか、と憶はれる紳士とすれちがふことがありました。その瞬閒鳥肌が立ちました。夕方でお散步をしていらしたのでせうか。一瞬のことではつきりと御顏を拜見することはできませんでしたが、自分の直觀を信じるなら、いまでもきつとあの紳士は先生であつたにちがひない、と想はれるのです。
嘗て川端康成と一瞬だけ目を合はせた刻のことを、先生はお書きになつていらつしやいます。それとは比べものにはならないかもしれませんが、僕にとつてはとても大切な一瞬でした。それだけで三ケ日に行つた甲斐がありました。この町に來て、何かまたひとつ力をいたゞけたやうな氣がしてゐます。
先生の作品を讀むといつも活力が體の奥深くから湧いてきます。どの作品もすばらしいですが、なかでも『孟嘗君』は僕の心の中で最高の位置を占めてゐます。
この作品はちやうど阪神淡路大震災が發生したときに神戸新聞で連載されてゐました。震災の爲一時連載が中斷された折、日々この物語を心待ちにしてゐた讀者から、「續きを讀みたい」といふ要望がたくさん寄せられたといふ逸話があります。
“さて、そのように書きはじめたところ、おもわぬ人物にぶつかった。白圭である。この大商人の雌伏の時が、予想をうわまわる光彩をはなちはじめたことに、喜躍すると同時にうろたえた。この小説は新聞の連載であったので、読者の反応が机上にとどくのである。たとえば、ある女性の読者の手紙では、
「今日は白圭さんはどうなるのか、と母はそればっかりつぶやいて毎日暮らしております」
と、あり、それは白圭の活躍がその家における最大の関心事になったことを告げていた。”
(『孟嘗君』「あとがき」より)
このやうにいつも多くの讀者に活力をあたへつゞけてこられたのだと念ひます。
これからも末永くすばらしい作品を書きつゞけていたゞきたい、と心より願つてをります。
まだ先生の作品を讀んだことのない方はぜひ一度手にとつてもらひたいとおもひます。老若男女をとはず、誰もがたのしめる作品ばかりだと思ひますから。
さういへば今日二月四日立春は先生の御誕生日ですね、おめでたうございます!
「光を昌んにす」
名は體をあらはす、とは正に先生のことですね。
「iphone snapshots」
二〇一七年大晦日
今年も一年閒たくさんの方々に種々とお世話になりました。 誠にありがたうございました!
また來年もどうぞよろしくお願ひ致します!
それでは皆樣よいお年を!
春日大社の藤
五月四日に春日⼤社に參詣し、「萬葉植物園」にて藤を視てきました。
こんなにたくさんの藤を閒近で視ることができたのは初めてのことでした。
いや、ほんたうにすばらしかつた!
藤だけでなくその外の萬葉植物も視ることができてよかつたです。
“式嶋之 山跡之土丹 人多 滿而雖有 藤浪乃 思纒 若草乃 思就西 君目二 戀八將明 長此夜乎”(萬:三二四八)
早いものでもうすぐ十月になりますね。
五月の事をいま頃書いてゐるといふのが恥づかしいのですが、せつかく撮つた寫眞を視てもらひたかつたので、遅れ馳せながらアップすることにしました。
上掲の萬葉歌一首を胸に、藤花を賞でていたゞきたいとおもひます。
小豆島
この夏は小豆島に滯在してゐました。
暑氣に負けてしまひ、正直言つてあまり寫眞を撮つてゐません。フィルム一本分だけです(笑)
もつと活發に動いてたくさん撮るつもりだつたのですが...讀書中心の生活でしたね。
何か特別な寫眞が撮れたわけではないですが、ひとまづアップしておくことにします。また今度、涼しい季節に再訪したいとおもつてゐます。
大部港の「喫茶サンワ」さんのナポリタンは絕品でしたね!
二度食べに行きました!
かういつた坂道もよかつたです。
此處には自動販賣機とちよつとした駐車スペースがあつて、ドライヴの途中に休憩するのに丁度よかつたです。小豆島のベストスポットの一つでしたね!
「還りの岡山行きフェリー上にて」
以上、簡略すぎて何か申し譯ないですが(笑)、小豆島抄景でした。
佐保川の櫻
“東大寺正倉院の西西北に有名な奈良建築を傳へる轉害門があり、これを佐保道門と呼んだ。その門から西に包永町法蓮寺町を經て法華寺の東までの道は昔の一條南大路で、これを佐保道といつたからである。その南北卽ち佐保川の兩岸から、奈良山連丘に至る地域は佐保であり、特に佐保川右岸の地を佐保の內と稱した。
この佐保の稱は隨分古いものと見えて、垂仁天皇紀に「朕今日夢矣、錦色小蛇繞于朕頸、復大雨從狹穗發而來之濡面、是何祥也」とは皇后がその兄にうながされて、睡眠中の天皇を弑し奉らんとした時のことで、その皇后の名は佐保姬で、その使嗾者たる皇后の兄は佐保彥であつた。佐保を 「さ廬」の意味とする古語大辭典の解は疑はしく、恐らく北に低い山を負ひ、南に奈良平野の淸流に添うた所の淸爽明朗な地の意味であらう。さはさやか・さ庭・さ⺼・さ井のさで、ほは火・秀・ほがら・乾す等のほであらう。左保姬はまた春の神である。それは今日でも佐保山の上に立つて南望して見たらよい。このほがらかな明るい土地は當時平城大宮人だちの最も愛好した地で、長屋王 (佐保大臣)、藤原氏(佐保殿ー佐保田)、大伴氏(佐保の家)等の貴人の邸宅も建てられ、またこの眺望を前にして元明・元正・聖武三天皇・仁正皇后の御陵もあり、ことに生前平城の地を慕はれた平城天皇の御陵もこの並びの佐紀の地を選ばれたのであつた。さればそこには平城宮人の悲哀、歡喜さまざまの感情生活がいろいろな心の花を咲かして、さまざまな歌となつて現はされてゐる。”(『萬葉集大和地誌』北島葭江)
四月十四日、「奈良縣立圖書情報館」前から佐保川に沿つて步いてゆきました。
春に寧樂を訪れたらこの櫻竝木の下を步きたくなります。
佐保川の兩岸にずつとつゞくこの櫻のみちが大好きなんですよね。
種々と書きたいことがあるのですが、明日また倉敷を出るのであまり時がありません。
よつて、櫻を視るときいつも胸に浮かぶつぎの一首で、この時のおもひをあらはしたいと意ひます。
人麻呂歌集歌です
“櫻花 開哉散 及見 誰此 所見散行”(萬:三一二九 卷第十二 羈旅發思)
種松山の山櫻
“誰にとつても、生きるとは、物事を正確に知る事ではないだらう。そんな格別な事を行ふより先きに、物事が生きられるといふ極く普通な事が行はれてゐるだらう。そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしてゐる、私達の直接經驗の世界に現れて來る物は、皆私達の喜怒哀樂の情に染められてゐて、其處には、無色の物が這入つて來る餘地などないであらう。それは、悲しいとか樂しいとか、まるで人間の表情をしてゐるやうな物にしか出會ヘぬ世界だ、と言つても過言ではあるまい。それが、生きた經驗、凡そ經驗といふものゝ一番基本的で、尋常な姿だと言つてよからう。合法則的な客觀的事實の世界が、この曖昧な、主觀的な生活經驗の世界に、銳く對立するやうになつた事を、私達は、敎養の上でよく承知してゐるが、この基本的經驗の「ありやう」が、變へられるやうになつたわけではない。
宣長は、經驗といふ言葉は使はなかつた。だから、こゝでもう一度引用するといふ事になるのだが、「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也。(中略)わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(紫文要領)──さうすると、「物のあはれ」は、この世に生きる經驗の、本來の「ありやう」のうちに現れると言ふ事になりはしないか。宣長は、この有るがまゝの世界を深く信じた。この「實」の、「自然の」「おのづからなる」などといろいろに呼ばれてゐる「事」の世界は、又「言」の世界でもあつたのである。”(『本居宣長』 小林秀雄)
西伊豆から倉敷に還つてくると、もう櫻の咲く季節。
四月四日、山櫻を視たくて種松山を步きました。開花はまだまだこれからといふ感じでしたが、下の寫眞のやうな姿を視ることができてよかつたです。
西伊豆で小林さんの『本居宣長』を讀み了へたところで、餘韻が胸に鳴り響いてゐたと懷ひます。
櫻を視るときいつも心に浮かぶのは、宣長さんや小林さんの言葉であつて、それはこれからも變ることがないだらうと想ひます。それほどふたりの言葉には力づよい言靈が宿つてゐて、讀む者の魂を搖り撼かさずには措きません。
“鶯之 木傳梅乃 移者 樱花之 時片設奴”(萬:一八五四)
“梓弓 春山近 家居之 續而聞良牟 鶯之音”(萬:一八二九)
春されば、うぐひすの聲に耳をすませ、櫻を視る。
それが、それこそが、大和人の生き方ぢやないかな。
“足比奇乃 山櫻花 日竝而 如是開有者 甚戀目夜裳”
(萬:一四二五 山部赤人)山を下りつゝ水島の街を望みました。
また來年も往かなくてはな。
絕ゆることなくまた還り見むため。
𨳝皐月辛丑
西伊豆滯在記
かなり時が經つてしまひましたが二月、三月に伊豆に滯在したときのことを書きます。
この旅の初日がちやうど熱海の「MOA美術館」のリニューアルオープンの日に當たり、尾形光琳の代表作『紅白梅圖屛風』を初めて生で視ることができました。ずつと視たいと念つてゐた願ひがかなひ、とてもうれしくおもひましたね。
ほんたうにすばらしい畫でした。ぜひ來年も視にゆきたいと意つてゐます。
また杉本博司氏を中心とした改裝も凄かつたです。壁に黑漆喰を用ゐることで光を巧みに調節し、作品とそれを視る者とが一對一になることができるやうになつてゐました。(Interview link)
他處では體驗することのできない、獨特な空閒が創り出されてゐますね。
谷崎潤一郎の『陰翳禮讚』の世界です。
美術館を訪れた後は富士市に住んでゐる高校の同級生と久しぶりに會ひ、部屋に一泊させてもらひました。翌朝彼の部屋を出て不盡山を目にしたのですが、それはもうほんたうに壯觀でしたね!每日この絕景をみてゐるのかとおもふと羨ましいかぎりでした。
それから田子の浦に連れて行つてもらひ、其處でもまた不盡山を望みました。この日はよく晴れてゐて、此處から眺める不盡山はまた格別でしたね。山部赤人の歌碑が在り、いにしへに念ひを馳せました。
不盡の姿をしつかり胸に刻んで西伊豆へ向かひました。
西伊豆には二ヶ月程滯在することになりましたが、そのなかで最も親しみを覺えたのはこれらの紅白梅でした。
僕にとつてこの季節の一番のたのしみは梅を視ることなので、滯在先で每日のやうに目にすることができたのは仕合せでした。蕾から滿開まで、この春ほど日々生長を觀つゞけたことは今までありませんでした。
梅を視ては萬葉集をよむ、といつた生活をしてゐましたね。特別な梅園といふわけではなく、よく通つた路に咲いてゐたものです。それがまたよかつたんですよね。
“梅花 吾者不令落 ⾭丹吉 平城之人 來管見之根”(萬:一九〇六)
梅の近くに菜の花も咲いてゐました。
澤田公園の露天風呂がある場所から望む夕日、とてもうつくしかつた。今囘はお風呂には入りませんでしたが、また機會があれば、ゆつくりお湯につかりながら夕陽を滿喫してみたいとおもひます。
𨳝皐月庚子