二〇一七年
「謹賀新年」
明けましておめでたうございます。
SNSでは旣にご挨拶申し上げましたが、あらためまして本年もどうぞよろしくお願い致します。皆樣と共に二〇一七年をすばらしい一年とすることができたらいゝな、と意つてゐるところです。
さて今年初のBlogですが、昨年末にSNSでシェアしたニュースでその開發を知つた「白川フォント(リンク)」について書いてみようとおもひます。
上の「謹賀新年」といふのはその中の「白川篆文」です。どのやうにしてこのBlogにアップしたかといふと、先づ「テキストエディット」(Mac)でフォントをこの「白川篆文」に設定し、「謹賀新年」と入力すると上の篆文が出力されます。次にそのテキストファイルを「PDFとして書き出」し、そのまゝPDFとして保存します。最後にこのファイルをJPGファイルに變換してトリミングをし、「image」挿入でアップしました。ファイル變換には試しに「Any フリー PDF JPG 変換」といふフリーソフトをつかつてみましたが(特に問題なし)、他にもソフトはたくさんあるので自分の好みに合ふものをつかつてもらへばいゝと思ひます。
フォントを自由に選擇できないアプリケーションやWebサイトも多いと想ふので、上記のやうに一手閒かゝるのは仕方ありませんね。
このフォントに由り、これからデジタル空閒に於いてより多くの人々に漢字の魅力を傳へることができるやうになるであらうと想はれます。開發に携はられた方々に厚く感謝申し上げたいと意ひます。ほんたうにありがたうございます。
それではさつそくこのフォントをつかつて、僕の好きな字の一つである「念」について書いてみます。
「念」(白川篆文)
酒坏尒 梅花浮 念共 飮而後者 落去登母与之(萬:一六五六 大伴坂上郞女)
久方乃 月夜乎淸美 梅花 心開而 吾念有公(萬:一六六一 紀少鹿女郞)
この二首は萬葉集卷第八「冬の相聞」の歌です。
この「念」といふ字について白川先生の『字統』には次のやうに說かれてゐます。
“形声 声符は今。今は栓のある蓋の形で、飲の正字である㱃は酓と欠とに従う。酓は酒樽(酉)に蓋栓(今)を加えた形である。〔説文〕十下に「常に思ふなり」とする。金文の〔大克鼎〕に「厥の聖保なる祖師華父を巠(経)念す」、〔毛公鼎〕「王畏の易からざるを敬念せよ」の「巠念」「敬念」が、字の原義である。〔詩、大雅、文王〕に「爾の祖を念ふこと無からんや」もその意。またいつまでも思いつづけることをいい、〔論語、公冶長〕に「伯夷・叔⿑は舊惡を念はず」とみえる。心は心臓の形。今は中のものを閉じこめる蓋で、心中に深く思うことを念という。(後略)”
また『字訓』には「おもふ【思・念】」の項に、
“四段。胸のうちに深く思うて、外にあらわすことのない考えごとをする。ひとり心のうちに抱く感情をいう。しかしそのような感情は、どうしても面にあらわれやすいものであるから、もとは「面」と同根の語であろう。そのような心理をもつ語として理解され、他の動詞・形容詞と複合して、用いることも多い。(中略)今は㱃(飲)の字形からも知られるように、壼形のものの蓋栓の形。従ってものを中に封じこめる意がある。(中略)〔万葉〕には「おもふ」という語が甚だ多いが、その表記には思よりも念の字を用いることが多い。念は心のうちに深く思い抱く意の字とされたのであろう。”
と、お書きになつてゐらつしやいます。
いまでは「おもふ」といふ言葉には「思」といふ字ばかりがつかはれ、「念」といふ字がつかはれることはほとんどないでせう。萬葉の古から脈々と受け繼がれてきた「國語のゆたかさ」を考へるとき、日本語はいま誠に憂慮すべき狀態にあるといはざるを得ません。「思ふ」「想ふ」「懷ふ」「意ふ」「臆ふ」「憶ふ」「念ふ」など、我々には實にたくさんの「おもひ」があります。
白川先生が遺された書により、大きな意味での日本語の復活が果されることを願つて已みません。
皆樣にとつて、二〇一七年はどのやうな歳になるのでせうか?
僕にとつてのこれからの一年は、益々「古念ゆ」といふ歳になるやうに想はれてなりません。
最後に柿本人麻呂の歌を、
夏野去 小壯鹿之角乃 束間毛 妹之心乎 忘而念哉(萬:五〇二)
それではまた!!