“近頃は、展覧會や音樂會が盛んに開かれて、繪を見たり、音樂を聽いたりする人々の數も急に殖えてきた樣子です。その爲でせうか、若い人達から、よく繪や音樂について意見を聞かれるやうになりました。近頃の繪や音樂は難かしくてよく判らぬ、あゝいふものが解るやうになるには、どういふ勉强をしたらいゝか、どういふ本を讀んだらいゝか、といふ質問が、大變多いのです。私は、美術や音樂に關する本を讀むことも結構であらうが、それよりも、何も考へずに、澤山見たり聽いたりする事が第一だ、と何時も答へてゐます。
極端に言へば、繪や音樂を、解るとか解らないとかいふのが、もう間違つてゐるのです。繪は、眼で見て樂しむものだ。音樂は、耳で聽いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言ふべき筋のものではありますまい。先づ、何を措いても、見ることです。聞くことです。さういふと、そんな事は解り切つた話だ、と讀者は言ふでせう。處が、私は、それはちつとも解り切つた話ではない、讀者は、恐らく、その事を、よくよく考へて見たことはないだらうと言ひたいのです。”
“美しい自然を眺め、或は、美しい繪を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言ひ現せないと思つた經驗は、誰にでもあるでせう。諸君は、何んとも言へず美しいと言ふでせう。この何んとも言へないものこそ、繪かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に傳へ度いと願つてゐるのだ。音樂は、諸君の耳から這入つて眞直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を默らせます。美には、人を沈默させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。繪や音樂が本當に解るといふ事、かういふ沈默の力に堪へる經驗をよく味ふ事に他なりません。ですから、繪や音樂について澤山の知識を持ち、樣々な意見を吐ける人が、必ずしも繪や音樂が解つた人とは限りません。解るといふにも、色々な意味がある。人間は、種々な解り方をするものだからです。繪や音樂が解ると言ふのは、繪や音樂を感ずる事です。愛する事です。知識の淺い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに關する經驗は、よほど深いかも知れません。實際、優れた藝術家は、大人になつても、子供の心を失つてゐないものです。
諸君は言ふかも知れない。成る程、繪や音樂の現す美しさは、言ふに言はれぬものかも知れない。これを味ふのには、言葉なぞ、かへつて邪魔かも知れない。しかし、それなら詩といふものはどうなのか、詩は、言葉で出來てゐるではないか、と。だが、詩人とても同じ事なのです。成る程、詩人は言葉で詩を作る。しかし、言ふに言はれぬものを、どうしたら言葉によつて現す事が出來るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を詩人と言ふのです。”
“私達の感動といふものは、自ら外に現れたり、叫びとなつて現れたりします。そして感動は消えて了ふものです。だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、さういふふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでせう。さういふ時の人の表情は、醜く見えるかも知れないし、又、滑稽に見えるかも知れない。さういふ時の叫び聲にしても、決して美しいものではありますまい。例へば諸君は悲しければ泣くでせう。でも、あんまりをかしい時でも淚が出るでせう。淚は歌ではないし、泣いてゐては歌は出來ない。悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといつてたゞ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはつきりと感じ、これを言葉の姿に整へて見せる人です。
詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある樣に、放つて置けば消えて了ふ、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱はず、はつきり見定めれば、美しい姿のあることを知つてゐる人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを讀んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌つて貰つたやうな氣持ちになるでせう。悲しい氣持ちに誘はれるでせうが、もうその悲しみは、不斷の生活のなかで悲しみ、心が亂れ、淚を流し、苦しい思ひをする。その悲しみとは違ふでせう。悲しみの安らかな、靜かな姿を感じるでせう。そして、詩人は、どういふ風に、悲しみに打ち勝つかを合點するでせう。”
(「美を求める心」小林秀雄)
いまの世の中、隨分頭でつかちになつてしまつた。
見る、聽く、感ずる、といふ人閒の直截な、生な經驗が忘却されてゐる。
幾人が、眞に空を瞻、風の聲を聽き、そして人の心、魂を感じてゐるであらうか。
小林秀雄の言葉に耳を澄ましてゐると、いつも人の本然の姿に立ち還ることができる。
※注記:この本の原文は「新字體・新假名遣ひ」であり、引用に當つて「舊字體・舊假名遣ひ」に直しゐます