蒼井 悠人

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『藝術論』

いまアンドレ・ジイドの藝術に關する評論集『藝術論』を讀んでゐます。河上徹太郎さんが編譯したもので、昭和二十二年に出版された本です。先日岡山の「万歩書店」本店で見つけたんですが、シンプルな装丁で気に入つてゐます。

その二番目に錄されてゐる「藝術の限界」といふ、一九〇一年にジイドが畫家に向けて話す爲に用意した草稿に次の言葉があります。

 

  “自然界では、何物も孤立も停止もしてゐない。すべてが持續してゐる。人間は自然界に、美を提出し、之を試す。すると自然はたちまちこれをつかみとつて、處理しよりする。そしてここに私が上述した事とは反對な事が起るのである。すなはちここでは人間は自然に從屬してゐるが、藝術作品では反對に人間が自然を征服してゐるのである。──「人間は提出し神は處理する」と言はれてゐるが、これは自然に於ては正しい。しかし私は、今述べた對立を、次の樣に約言しようと思ふ。卽ち藝術作品にあつては、反對に神は提出し人間は處理する、と。藝術作品の製作者を以て任ずる人たちで、この事實を意識してゐないものは、みな、何はともあれ藝術家とはいへないのである。
 ここで諸君が、この言葉を兩斷し、その切斷した公式の何れか一つを、自己の信條として取上げて見れば、諸君は性懲りもなく爭つてゐる藝術上の二つの大きな邪說を手に入れることが出來るのである。この二つの對立は、彼等の說を統一するそのことから、卽ちただそれ等が互ひに相剋し消滅することのみから藝術は生まれるものだといふことを理解しようとしないために起るのである。
 神は提出する、これが自然主義であり、客觀主義である。其他何と呼んでもよろしい。
 人は處理する、これが先驗主義であり、理想主義である。
 神は提出し、人は處理する、これが藝術作品である。”

  

この最後の「神は提出し、人は處理する、これが藝術作品である」といふことが、これから、この二十一世紀を生きてゆく上でとても大切なことなんぢやないかなあ、と念ふんですよ。

神(自然)のみ、人のみ、ではなくてね。

ジイドのこの考へが發表されてからかなり經ちますけど、現代に於いていま一度熟考しなくてはならないことだと思ひますね。

まだすべてを讀んだわけではありません。他のものも樂しみにしてゐるところです。

 

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