胡蝶の夢
“昔は莊周夢に胡蝶と爲る、栩々然(タノシム貌)として胡蝶なり。自ら喩んで志に適するか(欣々トシテ得意)、周たるを知らざるなり。俄然として覺むれば即ち蘧々然(目サメタル貌)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と爲るか、胡蝶の夢に周と爲るか。周と胡蝶とは、卽ち必ず分あり。此れを之れ物化と謂ふ(莊周ト蝴蝶ト固ト分アリ、是ハ是ニシテ彼ニ非ズ彼ハ彼ニシテ是ニ非ズ彼此ヲ⿑クスレバ則チ化ス孰カコレ周孰カコレ蝴蝶、彼此⿑クシテ卽チ是非ヤム)。”
(『莊子』「⿑物論」田岡嶺雲 和譯)
いま田岡嶺雲譯で『莊子』を讀んでゐて、先日「內篇」を讀み了つたところです。嶺雲の注がとても良いですね。讀みすゝんでゆくのがたのしいです。
『莊子』を讀んでゐると、數々現在つかはれてゐる言葉の語源に出遇ひ、はつとさせられます。あらためて、しつかりと古典を讀まないといけないなあ、とつよく感じてゐるところです。
折にふれて『莊子』や『老子』を讀むことで、「無爲自然」の境地に念を致すことは、現代人にとつて大切なことなのかもしれません。この悠大な世界が、時に「有爲」に執はれすぎてゐる己が在ることを気づかせてくれます。