今年も慌ただしく年末を迎へることゝなりました。
憶ひかへせば種々とあつた一年でした。
自分のなかでいくらか進歩したところもありましたが、やはりあまり想ふやうにゆかず、いま一歩、といふところが多かつたのではないかとおもはれます。しかしながら概觀してみると、とてもよい一年だつたのではないかともおもつてゐます。
僕にとつて今年は何よりも小林秀雄さんにふれたことが一大事でした。これからの人生に多大な影響を及ぼすであらうことは想像に難くありません。小林さんのお蔭でものの見かたや考へかたが、自分なりに少しはふかまつたのではないかなと愚考してゐます。日本が小林秀雄といふ人を有つたことは大變仕合せなことであつた、とつよく感じますね。
來年もまた多くのことを學びたいと意つてゐます。あまり器用ぢやないので、いつものことながらきつと尺進寸退の一年になるのだらうと豫想されます。しかし、近頃ではその尺進寸退の自分の人生を段々と愛することができるやうになつてきました、よい兆候です(笑)
微を積むことを怠らなければきつと大丈夫、といまでは確信してをります。
今年もたくさんの人にお世話になりました。本當にありがたうございます。
また來年も皆でよい一年にしたいですね、どうぞよろしくお願ひします!
“ひさかたの天照る月は神代にか出で歸るらむ年は經につつ”(萬:一〇八〇)
いま倉敷をでることを考へてゐますが、どこに住むかといふことについてなかなか結論がでません。
岡山、奈良、東京と日ごとに頭のなかで錯雜と想ひがめぐります。
ここ數日『窓辺の風』(宮城谷昌光)を讀んでゐて、そのなかに堀辰雄のことがでゝをり、今日彼の書いたものをむしやうに讀みたくなりました。そんなわけで圖書館に行き『堀辰雄全集第四卷』(筑摩書房)を借りることにして、「自作について」といふところを讀んでみました。
彼の小說はまだ讀んだことがありません。まあこれからといふことなんですが、とにかく彼の随筆や評論をまづ讀んでみたいと意つてゐて、今日は上記のところをちよつと讀んでみました。
そこに「大和路」を旅したときのことや折口信夫のことが書いてあるんですが、そのやはらかくて心地のよい文章を讀んでゐると、かつて「山邊の道」を步いたときの胸の奥がしめつけられるやうな感覺が懷しくおもはれ、やつぱり奈良かなあ、といふ氣がしてきました。
ここ數日東京にかたむいてゐたのに......あらためて言葉の力はすごいなあと(笑)
“はじめて私が大和に游んだのは、一九三七年のことである。晚春から初夏にかけて、京都に一と月ばかり暮らしてゐた。そのをり萬葉集などもときどき讀んでみてゐたが、或る日、ふいに思ひ立つて、ひとり奈良へ出かけ、新藥師寺の高圓山を眺めたりして、一種の滿足を得た。歸りみち、高畑の古びたついぢ道を通り拔けてゆくうち、おもひがけず一めんに白い茅花が微風になびいてゐる小さな原へ出たときの、一瞬の、目もさめるやうな心もちも、その最初の日の忘れ難いものの一つだつた。”
大和に游ぶべきかなあ。