萬葉集
これは昨日知人に宛てて送つた文章に加筆修正したものです。元より精査して書いてゐない、私的なものです。捨て置くには少し惜しいかなと思ひ、Blogに載せてみることにしました。誤りも多いかと思ひますが、何か參考になるところがあればうれしいです。
“すべて「人麿歌集」から、すなはち萬葉集の左注に「柿本朝臣人麿之歌集出」とある歌を選んで思ふところを述べてみます。人麿自身が詠んでゐない歌もあるでせう。
詠雲:(一〇八七)穴師川川波立ちぬ卷目の弓月が岳に雲居立てるらし
歌意:奈良県の弓月が岳の上に居る雲、ぢつとそこに在る雲を詠んでゐるわけですが、「見る」といふ言葉はなくても、やはりその雲を靈的なものとして見てゐるわけですね。そしてその存在を歌に詠むといふこと自体が「魂振り」となつてゐるといふことですね。それはそこに在す神樣、または自分の戀するひとの魂として見てゐるのです。そしてそれを詠むことによつて、つまり言靈を發動させることによつて、また歌といふう型式(かたち/form)をつくることによつて、魂の交はりをしてゐるわけですね。
行路:(一二七一)遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黑駒
歌意:これも遠くで自分を待つてゐる戀人の魂・靈を雲居に見てゐますよね。そして自分の乗つてゐる馬に、早く想ふ人の家に辿り着くためにしつかり歩めよ、と歌つてゐるわけですね。
羈旅作:(一二四九)君がため浮沼の池に菱採むと我が染めし袖ぬれにけるかも
歌意:「君がため」「妹がため」といふのは相手のことを想つて行ふ「魂振り」を意味します。ここもおそらく、豫祝〔一定の場所(標を結つて區畫し)・時間(いついつまでに)・量(これだけの草をつみます)を神樣に誓ふことにより、自分の願ひの成就を期待する〕といふことをしてゐるのですね。そのときに「袖ぬれ」た、と歌ふことにより相手の魂と觸れ合つたといふことを表してゐるわけです。
寄木:(一三〇四)天雲のたなびく山のこもりたる我が下心木の葉知るらむ
歌意:これも「天雲のたなびく」といふことにより想ふ人の魂・靈を感じさせます。そして他のひとには知られてゐない「隱れたる/こもりたる」、その戀する心を「木の葉」は知つてゐるだらう、と歌つてゐるのですね。それは「草木すら言問ふ」という、古代のひとびとが皆有つてゐた普通の感覺ですよね。
寄海:百傳ふ八十の島みをこぎ來れど粟の小島は見れど飽かぬかも
歌意:この歌は前回送つた、「稻日野も行き過ぎかてに思へれば心戀ほしき可古の島見ゆ」と同じく、「地靈讃誦」の歌ですね。海路を旅してゐるときに、昔々から伝へくる、たくさんの島廻(海辺の浦や岬のことで、その土地ごとに其処を領く、支配する、神樣が存在する)を通つて來たのですが、そのなかでもいま現在通過中の「粟の小島」といふ處は、他所以上に何度見ても飽き足りません、と歌つてその島を支配されてゐる神樣を稱へてゐるわけですね。またさうすることにより旅路の安全を祈願してゐるといふことです。
詠雨:(二二三四)一日には千重しくしくに我が戀ふる妹があたりに時雨降れ見む
歌意:一日の間に千回も、頻りに戀しく想ふ女の家の方角に時雨が降つてゐるのが見える。これも「魂振り」ですね。
冬相聞:(二三三四)あわ雪は千重に降りしけ戀しくのけ長き我は見つつしぬばむ
歌意:戀する人が訪ねてこない、それゆえ一日を長く感じる、そんなわたしはせめて「あわ雪」を見て想ふ人と靈的につながつてゐたい、といふことでせう。「淡雪・泡雪」は消えやすいものですから、「千重に降りしけ」と、途切れぬことを願つてゐるのですね。
寄物陳思(物に寄せて思ひを陳ぶ):
(二四二六)遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ずて我が戀ふるかも
(二四五二)雲だにもしるくし立たば心やり見つつも居なむただに會ふまで
(二四六〇)遠き妹がふりさけ見つつしぬぶらむこの月の面に雲なたなびき
(二四八一)大野にたどきも知らず標結ひてありぞかねつる我が戀ふらくは
(二四九一)妹に戀ひ寢ねぬ朝けにをし鳥のここゆ渡るは妹が使か
(二八五四)妹に戀ひ寢ねぬ朝に吹く風の妹に觸ふれなば我と觸れなむ
などがあります。
最後に、持統天皇の吉野行幸のときの人麿作歌をあげておきます。
(三七)見れど飽かぬ吉野の川の常なめの絕ゆることなくまた歸り見む
僕たち倉敷人なら、「見れど飽かぬ高梁川の常滑の絕ゆることなくまた歸り見む」と地靈を稱へるところでせうか。
萬葉集(特に初期の)には、古人の豐かな自然觀、それは神樣・山川草木と融即の關係にある、世界觀があります。日本人はもつとさういふ見方、觀方、感じ方を大切にしてゐかなければいけないと思ひますね。まだまだ淺學の徒であり、間違ひも多いと思ひますが(笑)、少しでも參考になればありがたいですね。”