“私が讀み出すと、彼女は私の肩に觸る程に顏を寄せて眞劍な表情をしながら、眼をきらきら輝かせて一心に私の額をみつめ、瞬き一つしなかつた。これは彼女が本を讀んで貰ふ時の癖らしかつた。さつきも鳥屋と殆ど顏を重ねてゐた。私はそれを見てゐたのだつた。この美しく光る黑目がちの大きい眼は踊子の一番美しい持ちものだつた。二重瞼の線が言ひやうなく綺麗だつた。それから彼女は花のやうに笑ふのだつた。花のやうに笑ふと言ふ言葉が彼女にはほんたうだつた。”(『伊豆の踊子』川端康成)
來月からしばらく伊豆に滯在する豫定なので讀んでみました。この名編を讀んでから行く伊豆にどういふ出會ひがあるのか、いまからたのしみにしてゐるところです。
本文中に、主人公の「私」が「踊子」を眺めてゐるときの描寫に、“(前略)私は心に淸水を感じ、ほうつと深い息を吐いてから、ことこと笑つた。”といふ一文があります。上の引用文を讀んでゐると、正に“ことこと笑”ひたくなるやうな淸々しい氣持ちになります。
また一つ心を滌つてくれる名文にふれることができうれしくおもつてゐます。
“
大體人間は、人間と自然界の
森羅萬象との
區別を鮮明にすることに、永い歷史的の努力を
續けて來たんだが、これは
餘り愉快なことぢやないよ。人生を空虛に感じる心の大半は、そんな努力の
遺傳から
湧いて來るのぢやないかしら。何時かは人間が、これまでの努力の道を逆戾りに步き出すかもしれないと、僕は思ふんだ、空に投げた石が、力がつきると共に地に落ちて來るやうにね。そして、この逆戾りした道が行き着く
終點は、多元にして一元の世界だと思ふね。そこに君、人間の多くの救ひがあるんだ。”
(『空に動く灯』川端康成 大正十三年)
川端さんの初期の短編小說にある言葉。
この言葉にはとても大切な眞實があると意ふ。
現代は唯物主義があまりにも橫行してゐて、多くの人々は物事の半面しか見えてゐない、見ようとしてゐないんぢやないかな。融即といふことが忘れ去られてしまつて、気づかぬ中にどんどん心が貧しくなつてきてゐる。
自然界と人間界の融即、もう一度其處へゆかなければならないんぢやないかな。
空に動く灯、それを再び我々の心にともさなくては──
古の人々は、慥かに多元にして一元の世界に住してゐたのだと懷ふ。