“が、美と云ふものは常に生活の實際から發達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに、美を發見し、やがては美の目的に添ふやうに陰翳を利用するに至つた。事實、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依つて生まれてゐるので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、唯灰色の壁があるばかりで何の裝飾もないと云ふ風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。”(『陰翳禮讃』谷崎潤一郎)
陰翳、そのうちに日本美あり。
厠、座敷、蒔絵、漆器などについて考察し、また西洋人と日本人の照明(光)に對する感覺のちがひについても種々と書かれてゐます。比較文化論として今日に於いてもとても興味深いものだと思ひます。
谷崎さんのかういふ日本文化についての文章好きだなあ。
“
大體人間は、人間と自然界の
森羅萬象との
區別を鮮明にすることに、永い歷史的の努力を
續けて來たんだが、これは
餘り愉快なことぢやないよ。人生を空虛に感じる心の大半は、そんな努力の
遺傳から
湧いて來るのぢやないかしら。何時かは人間が、これまでの努力の道を逆戾りに步き出すかもしれないと、僕は思ふんだ、空に投げた石が、力がつきると共に地に落ちて來るやうにね。そして、この逆戾りした道が行き着く
終點は、多元にして一元の世界だと思ふね。そこに君、人間の多くの救ひがあるんだ。”
(『空に動く灯』川端康成 大正十三年)
川端さんの初期の短編小說にある言葉。
この言葉にはとても大切な眞實があると意ふ。
現代は唯物主義があまりにも橫行してゐて、多くの人々は物事の半面しか見えてゐない、見ようとしてゐないんぢやないかな。融即といふことが忘れ去られてしまつて、気づかぬ中にどんどん心が貧しくなつてきてゐる。
自然界と人間界の融即、もう一度其處へゆかなければならないんぢやないかな。
空に動く灯、それを再び我々の心にともさなくては──
古の人々は、慥かに多元にして一元の世界に住してゐたのだと懷ふ。