寧樂滯在記 三「宇陀」
「阿騎野にて」
“宇陀は大和の東部、吉野郡の北東に偏在して東伊賀・伊勢の兩國に境し、吉野郡に次いで峻岳蟠蜒する土地であるが、國史には最も早く現はれ、神武天皇の御時、その皇軍活躍の舞臺となつた。從つてその聖蹟及びそれに關聯する土地の名だけ舉げても、穿邑・高倉山・國見山・下つ縣・高城・血原・朝原等が見えてをり、垂仁天皇朝には、倭姬命が天照大神の靈鏡を奉じてこれを菟田の阿騎、筱幡に奉祀されたこともある。降つて天武天皇が卽位の前壬申の亂の起るに及んで、吉野宮から東國に行かんとして吾城・大野・香牟羅等の地を通過せられたこともある。
しかし飛鳥奈良朝を通じ、宇陀の地はむしろ偏僻の地として、狩獵の外にはあまり(に)都人の入りこむこともなかつたやうである。ただ忍坂あたりから榛原の邊にわたつて皇族方の陵墓が散在してゐるのが目に立つ。萬葉集に現はれた二三の歌はこの飛鳥朝から藤原朝にわたつてのものである。 ただ注意すべきことは今日も水銀の產地で、赤埴の名の殘るごとく、辰砂を含む赤土の多い所である。血原も茅原でなくてあるひは赤土の原の意かも知れない。”(『萬葉集大和地誌』 北島葭江)
十月二十四日、この日は宇陀へ往きました。
先づはJRで奈良驛から櫻井驛まで下り、そこから近鉄で榛原驛まで行きました。
この近鉄大阪線の列車からの風景、大好きなんですよね。
「Instagram shot : 櫻井から榛原へ 車窓より吉隱邊りを視る」
榛原驛に着くと、次はバスに乘つて「八咫烏神社」にむかひました。



「Instagram shots : 八咫烏神社にて」
“‥‥‥是に亦、高木大神の命以ちて覺し白しけらく、「天つ神の御子を此れより奧つ方に莫入り幸でまさしめそ。荒ぶる神甚多なり。今、天より八咫烏を遣はさむ。故、其の八咫烏引道きてむ。其の立たむ後より幸行でますべし。」とまをしたまひき。故、其の敎へ覺しの隨に、其の八咫烏の後より幸行でませば、吉野河の河尻に到りましし時、筌を作せて魚を取る人有りき‥‥‥”(『古事記 中卷』)
いにしへにおもひを馳せながらお參りしました。
次は「阿紀神社」をめざして南へ步いてゆきました。
縣道二百十七號線から伊勢本街道へ。
步く、步く。
「秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨」(萬:二二四二 人麿歌集)
宇陀に來て感嘆したのは、とにかく尾花がうつくしい、といふことでした。
秋の夕光に輝いてゐました。
花を見る。
山を視る。
阿紀神社へとつゞくみちにも花々が在る。
“古代においては、「見る」という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである。国しぬびや魂振りには、ただ「見る」「見ゆ」というのみで、その呪的な意味を示すことができた。万葉には末句を「見ゆ」と詠みきった歌が多いが、それらはおおむね魂振りの意味をもつ呪歌とみてよい。”(『初期万葉論』「叙景歌の成立」白川静)
「天離 夷之長道従 戀來者 自明門 倭嶋所見」(萬:二五五 柿本人麿)
「阿紀神社の隣に在る」
「Instagram shot」
「阿紀神社」
「阿紀神社 能舞臺」
“今大宇陀町から西一粁の迫間に式內阿騎神社があり、手力男、秋姬、思兼の三神を祀り、社に近く高天の森の圓丘があり、倭姬が一時天照大神の靈を安置した所だと傳へてゐる。”(『萬葉集大和地誌』)
「神在す」
とても神聖な場處だとおもひます。
いにしへの阿騎野を念ふ。
最後に「阿騎野・人麻呂公園」へゆきました。
上の寫眞は「音羽山」のあたりを望んで撮つたものだと憶ひます。
「Instagram shot : 柿本人麿像」
歌聖、柿本人麿とむかひあふ。
「これからどうぞよろしくお願ひします」と、萬感を胸に抱きつゝ、ご挨拶申し上げました。
とても意義深い一日となりました。