廣江の櫻
「廣江の或る丘より水島工業地帶を望む」
「廣江の或る丘より水島工業地帶を望む」
“東大寺正倉院の西西北に有名な奈良建築を傳へる轉害門があり、これを佐保道門と呼んだ。その門から西に包永町法蓮寺町を經て法華寺の東までの道は昔の一條南大路で、これを佐保道といつたからである。その南北卽ち佐保川の兩岸から、奈良山連丘に至る地域は佐保であり、特に佐保川右岸の地を佐保の內と稱した。
この佐保の稱は隨分古いものと見えて、垂仁天皇紀に「朕今日夢矣、錦色小蛇繞于朕頸、復大雨從狹穗發而來之濡面、是何祥也」とは皇后がその兄にうながされて、睡眠中の天皇を弑し奉らんとした時のことで、その皇后の名は佐保姬で、その使嗾者たる皇后の兄は佐保彥であつた。佐保を 「さ廬」の意味とする古語大辭典の解は疑はしく、恐らく北に低い山を負ひ、南に奈良平野の淸流に添うた所の淸爽明朗な地の意味であらう。さはさやか・さ庭・さ⺼・さ井のさで、ほは火・秀・ほがら・乾す等のほであらう。左保姬はまた春の神である。それは今日でも佐保山の上に立つて南望して見たらよい。このほがらかな明るい土地は當時平城大宮人だちの最も愛好した地で、長屋王 (佐保大臣)、藤原氏(佐保殿ー佐保田)、大伴氏(佐保の家)等の貴人の邸宅も建てられ、またこの眺望を前にして元明・元正・聖武三天皇・仁正皇后の御陵もあり、ことに生前平城の地を慕はれた平城天皇の御陵もこの並びの佐紀の地を選ばれたのであつた。さればそこには平城宮人の悲哀、歡喜さまざまの感情生活がいろいろな心の花を咲かして、さまざまな歌となつて現はされてゐる。”(『萬葉集大和地誌』北島葭江)
四月十四日、「奈良縣立圖書情報館」前から佐保川に沿つて步いてゆきました。
春に寧樂を訪れたらこの櫻竝木の下を步きたくなります。
佐保川の兩岸にずつとつゞくこの櫻のみちが大好きなんですよね。
「奈良縣立圖書情報館前にて」
種々と書きたいことがあるのですが、明日また倉敷を出るのであまり時がありません。
よつて、櫻を視るときいつも胸に浮かぶつぎの一首で、この時のおもひをあらはしたいと意ひます。
人麻呂歌集歌です
“櫻花 開哉散 及見 誰此 所見散行”(萬:三一二九 卷第十二 羈旅發思)
「若草山を望む」
“敷島の やまと心を 人とはば 朝日に匂ふ 山さくら花”(本居宣長)
四月九日に吉野を訪ねました。二度目の吉野です。
前囘はロープウェイを利用しましたが、今囘は人が多すぎたこともあり、步いて上までゆくことにしました。
吉野は何といつても山櫻ですね。
前囘來た時と同じく今囘も中千本の辺りまでしかのぼることができませんでした。この日までに中腹までの花はかなり散りはじめてをり少し殘念でしたね。
それでもこれらのうつくしい山櫻を視ることができ、とてもうれしくおもつてゐます。
下は世界遺産となつてゐる吉水神社への參道に咲いてゐた花です。とてもきれいでした。吉野に行くことがあれば是非拝することをお勸めします。すばらしい場所です。
こちらが有名な吉水神社から視ることのできる一目千本の景色ですね。
“やすみしし 我が大君の 聞しをす 天の下に 國はしも さはにあれども 山川の 淸き河内と み心を 吉野の國の 花散らふ 秋津の野邊に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絕ゆることなく この山の いや高知らす みなぎらふ 瀧の宮處は 見れど飽かぬかも”(萬:三六 柿本人麿)
また必ず來ます。
“見れど飽かぬ 吉野の川の 常なめの 絕ゆることなく また歸り見む”(萬:三七 同 )
四月五日、櫻をもとめてふたゝび種松山の公園まで山路を辿りました。
山裾で視上げた竹の葉、涼風吹くみち。
こちらも山裾で。小花が山路にアクセントをつけてくれます。
陽光をうけてかゞやく綠葉。
舞ひ散る花片もうつくしかつたです。
この風景は好きですね。ゆるやかな曲線を描くみちに沿つて咲く櫻が見事です。
さらに辿つてゆくと路傍にはかういつた小花も咲いてゐて、目を樂しませてくれます。
靜かに其處に在る山櫻。心が滌はれます。
こゝも氣に入つてゐます。もうすぐ山頂の公園です。
この樹もよかつた。
公園の展望臺より西の玉島方面を望んで。夕日に照らされた高梁川がきれいでした。
麓の公園にて。
この日はほんたうによい時閒をすごすことができました。
また來年行くことができればいゝなとおもつてゐます。